ペンテコステの日に起こること
「What Happens on the Day of Pentecost」
- 使徒の働き1章4-8節 ,2章1-4節 -
2022年6月5日 佐野レインボーチャペル
聖書
使徒の働き1章4-8節 ,2章1-4節
序 論
- 今日は、キリスト教の暦ではペンテコステである。ご存じのように、ペンテコステは、神様の約束されたご聖霊が、弟子たちの上に下り、彼らが力を受け、教会が誕生した特別な記念日である。
- そして、このご聖霊の降臨によって、初代のクリスチャンたちが、十字架と復活を通して完成された福音の力を、現実の生活の中で個人的に体験し始めた日である。
- この日、まだ世界の片隅ではあったが、見える形で、すべてが変わり始めたのである。
- その意味で、ペンテコステは、イエス様の誕生・死・復活を記念するクリスマス、グッドフライデー、イースターなどの頂点・集約・終着点とも言うべきキリスト教の重要な祭典である。
- しかし、これらの事実にもかかわらず、ご聖霊のことは、クリスチャンたちに案外知られていない。
- 言うまでもなく、ご聖霊は、父・子・聖霊の「三位の神」のお一人である。それなのに、天地の造り主として知られる父なる神様や、私たちのために死んで甦られた子なる神様ほどには知られていない。
- 一方、私たちのご聖霊の理解は、ともすると、異言を話す、病を癒す、奇跡や不思議を起こす、などの特殊・特定のイメージと結びついた、どこか偏ったものになっている。
- それでは、ご聖霊とはどんなお方か? このお方に私たちは何を期待できるのか?
- 今日このペンテコステの日に、ご聖霊のことを、使徒の働き1、2章の冒頭の記事を中心に学びたい。
- この箇所は、復活されたイエス様が、40日間弟子たちと共に過ごし、天に帰られる直前、ペンテコステの日の10日前に、その日に弟子たちに起こることを預言し、それが成就した記事である。
本 論
Ⅰ.まずは、ご聖霊が、なぜ、私たちの信仰生活においてそれほど大切なのかを考えたい。
- その第一の理由は、ご聖霊なしには弟子たちは、霊的に極めて惨めで、無力な存在であり、当時の状態では、到底「キリストの証人」とはなり得なかったからである。
- 弟子たちは、イエス様と3年間共に過ごし、起居をともにしてきた人物であった。即ち、
- 彼らは、3年間、イエス様の生き様を個人的に実際に見てきた。
- イエス様の数々の教えを学んで来た。
- イエス様の数々の奇跡的業を目の当たりにしてきた。
- イエス様が「神であり、キリストである」という信仰告白にまでも到っていた。
- 「たとい死ななければならなかったとしても、あなたを裏切るようなことは決してしません」という堅い決意の表明までしていた。
- にもかかわらず、彼らのクリスチャンとしての霊性、レベルは、極めて低かった。
- 今日、後に触れることであるが、彼らはご聖霊の満たしなくして、あのままでは到底、「キリストの証人」となって、福音を全世界に伝えることなどできる状態ではなかった。
- 彼らの霊的惨めさの例を挙げるなら、弟子たちは、何度も何度も、最後の晩餐直前でさえも、自分たちの中で誰が一番偉いか、誰がイエス様の「一番弟子」かで、競い合い、争って、イエス様を悲しませる状態であった。
- 更に、彼らは、イエス様が十字架にかけられる前の晩に捕まったとき、自分も捕まったら大変とばかりに、保身のため、物の見事に、全員がイエス様を裏切って逃げたのである。
- 一番弟子ペテロは、三度神様に誓ってまでイエス様を知らないと公言し裏切った。
- その他の弟子たちも全員蜘蛛の子を散らすようにイエス様を置き去りにして逃げ去った。
- 弟子たちは、イエス様と3年間共に過ごし、起居をともにしてきた人物であった。即ち、
- なぜ、ご聖霊が私たちの信仰生活に重要なのか?その第二の理由は十字架と復活が歴史的事実として起こっても、それだけでは、弟子たちに、特に大きな変化はなかったからである。
- 前項で学んだような惨めな弟子たちの姿がみごとに変わり、文字通り命がけのキリストの「証人」となって彼らが立ち上がったのは、歴史的にはいつだったのか?
- イエス様が、十字架にかかったときだったか? NO
- イエス様が、復活されたときでだったか? NO
- 更には、その復活されたイエス様に彼らが、顔と顔とを合わせて出会い、弟子たちがイエス様の復活を知り、喜んだときだったか? NO
- それでは、弟子たちが、全く変わり、キリストの証人として、命がけで、力強く立ち上がったのは、いつだったのか? 弟子たちの間で、誰が偉いか争い喧嘩するのではなく、愛のコミュニティーが形成され始めたのは、いつだったのか?
- それは、使徒の働き2章の記事から明らかなように、あのペンテコステの日、弟子たちが、個人的に、体験的に、ご聖霊を受け、ご聖霊との関係を持ち始めた日からであった。
- 前項で学んだような惨めな弟子たちの姿がみごとに変わり、文字通り命がけのキリストの「証人」となって彼らが立ち上がったのは、歴史的にはいつだったのか?
Ⅱ.それでは、ペンテコステの日に、弟子たちに一体何が起こったのか?
- それについてのイエス様の明確な解答が、使徒1章8節である。
- 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまでわたしの証人となります」。
- これは、もう間もなくに迫った(実際には10日後であった)「ペンテコステ」即ち、「ご聖霊が弟子たちに下る日」に関するイエス様の預言である。
- イエス様は、復活後のこの時期に、このような「ご聖霊」に関する預言と言うか、神様の約束と言うか、命令を繰り返された。
- ルカ24章49節 「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったもの(ご聖霊)をあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力(ご聖霊)を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」
- 使徒1章4-5節 「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束(ご聖霊)を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」
- 使徒1章8節は、それらの結論的預言であり、同2章1-4節は、その成就であり、それが「ペンテコステの日に」弟子たちに起こったことである。
- 即ち、ペンテコステの日に弟子たちに起こったことは、ご聖霊によって「力」を受けたことである。私たちには、単なる言葉や思想ではなく、「力」が必要なのである。
- パウロは言う。「神の国は、言葉(思想、考え方)ではない。力である」(Ⅰコリント章節)。
- それでは、ご聖霊はどんな力をくださるのか?
- 確かに、人々は、皆何らかの「力」を求めている。
- 学生なら学力・知力、健康のためには肉体的力、豊かな生活のためには経済的力、そのほかにも政治的力、様々な能力・・・等。皆、力を求めている。
- (これらは、人間的には、自分と人々のために必要な力でもある。私たちがそれらを獲得するために努力することは決して悪いことではない。否、寧ろ、良いことである。
- しかし、それらの「力」は、ご聖霊を受けたり、満たされたりすることとは無関係であり、神様に従わない人々でも持っている、持つことができる「力」である。
- そして、これらの力を持っても、人は必ずしも幸せにはならない。返って不幸になる人も多くいる。毎日世間を賑わすニュースがそれを証明している。参考:詩篇73篇
- 要するに、ペンテコステの日に、ご聖霊が弟子たちに与えた力はそれらの力ではなかった。
- あの有名なペテロの言葉を思い出して頂きたい。生まれつき歩けないため、宮の「美し」と言う門の前で、毎日物乞いして生きていた男に向かって、聖霊に満たされていたペテロは何と言ったか?「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、立って歩きなさい。」であった。
- 聖霊に満たされていたペテロが、持っていたのは金銀では無かった。彼は、聖霊によって別の力、イエス様の名による力を持っていた。
- それでは、聖霊はどんな力をくださるのか? イエス様は言われた。「この力を受けるとき、『私の証人』となる」と。即ち、それは、「キリストの証人となる力」である。具体的に言うなら、「キリストの証人になる力」とは:(代表的なものを三つ挙げる)
- 第一に「キリストを指さす力」である。「その祝福は誰のお陰ですか?」と尋ねられたとき、「証人」は「それはキリストです。キリストのお陰です」と、即座にキリストを指さす。そのための勇気と力である。別言すると、キリストに栄光を帰する力である。
- 聖霊に満たされていないと、神様のご用をしながらも、「自分が」「自分が」という「自我」が前面に出て、「それは私です」と自分を指さしてしまう。(「白い巨塔」から:里見教授は患者のために患者を救う。でも財前教授は自分のために患者を救う)
- イエスさまのために、イエス様の栄光のために、それをしていたつもりが、いつの間にかそのことが忘れられてしまっている。
- だから、自分が認められないと、自分がやらせてもらえないと、自分がほめられないと、ガッカリしたり、怒ったりする。
- バプテスマのヨハネの奉仕姿勢:「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハネ3章28-30節) 聖霊による力のみがこれを可能にする。
- 例話:自らの知恵で、渡り鳥の足を口でくわえて空を飛ぶことを考え出したカエルが、空を飛びながら下の方から聞こえてくる、「誰があんな賢いことを考えたのか。まさかあのカエルじゃないよな」という声に、「俺だ。俺が考えたんだ」と言いたくて、遂に我慢できなくなって、「俺だ」と言った瞬間に地上に落ちて死んでしまった。「私が」「私が」という自我が、霊的生活には命取りとなるのである。
- 第二に、「恐れを克服する力」である。
- 私たちは沢山の「恐れ」に囲まれている。人を恐れ、失敗を恐れ、病気や災害を恐れる等々。恐れがあるためすくんでしまい私たちは沢山の失敗をする。しかし、自分ではそれらに打ち勝つことはできない。
- ペテロも上述のようにイエス様が捕えられた晩、「あなたもあのイエスの仲間でしょう?」と、若い小娘に聞かれたとき、恐れた。そして「キリストの証人」になるどころか、自分も捕まるのではと怖くなり、3回までも、「わたしはそんな人を知らない」とイエス様を否定し、裏切る臆病者であった。
- しかし、そのペテロが、ペンテコステの日、聖霊に満たされて、見事に変わったのである。彼は、やがて、自分たちの命を狙う政府の役人を相手に堂々と、「私たちはあなたがたを恐るべきか、それとも神を恐るべきか」と命を懸けて挑戦的に問いかける男に変わった。使徒4章19節
- 更には、使徒の働き12章に記されているが、再び信仰ゆえに捕縛されたペテロは、「処刑」の決まった前日の夜、普通なら恐れと心配で、一睡もできない状況なのに、その晩も、天使が突ついて起こさないと、起きないほど、死を恐れず、ぐっすり、スヤスヤと平安のうちに寝ていた。
- ご聖霊は、ペテロに、「恐れを克服する力」を与えられたのである。
- 第三に、品性の実、愛の実を結ぶ力:
- これが究極的に最も重要な力である。別言すると「キリストに似る者となる力」である。それは聖霊による力である。第二 コリント3章18節は言う。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」と。
- それは、奇跡の力以上である。多くの人々は奇跡の力こそが聖霊の力と勘違いする。それが最もパワフルな力だと思って、尊敬し、憧れさえする。
- しかし、興味深いことであるが、フィリップ・ヤンシーという著名なキリスト教文筆家はこのように指摘している。聖書の中で最も奇跡が多かった時期というのは、イスラエルの人々が、出エジプトから始まって、荒野をさまよった時代であるが、皮肉なことに、それは、イスラエルの人々の信仰が極めて低迷していた時代であった。奇跡の事実は、必ずしも聖霊の力を反映していない。
- 黙示録13章11-15節には、サタンの勢力も、驚くべき奇跡のわざ、人を生き返らせたり、病や傷を癒す力をもっていることが記されている。
- しかし、ここにサタンには絶対にできないことがある。それは、人に愛の力を与えることである。愛という品性の実を結ばせる力はサタンにはない。
- 人を愛の人に変える力はご聖霊しかもっていない。そして、その愛の具体的な実が、ガラテヤ5章22-23節に書かれている品性の実である。それらは、他でもない、御霊の実である。即ち聖書は言う。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません」。
(御霊の実はここで単数。即ち愛であり、その後は、その具体的特質、品性の列挙) - この力なくして、私たちは力強い「キリストの証人」とはなれない。何故なら、愛し合う群れこそが、キリストの証人だからである。ヨハネ13章34節「・・・・」。
- 例話「ご聖霊が与える愛の力」:50歳を越えたばかりの、ある大手銀行のモーレツ社員として生きて来た人物の話しである。そのモーレツぶりは、家にいることはほとんどなく、いたとしても15分と家族と一緒にいることはなかった。当時、既にある東京の支店長にまでになっていたが、最後の出世の階段を登りつめようとしていた。そんな頃、奥さんが突然アルツアイマーを発症。企業戦士的メンタリティーで、俺が自分の力で何とかしてやると、リストを作って妻を連れて、かたっぱしから医者を訪ねたが、妻の病状は悪くなる一方であった。妻は病気の発症直前に教会に行き始め、すでに入信していた。それで、妻の病気が重くなってからも、彼女を連れて一緒に教会に通った。そんな中で、彼自身、妻の病気の発症・その病との戦いの中で、人間の無力さを知り、人生を振り返り、これまでの自己中心な人生を悔い改め入信した。彼は変わった。その後、彼は、あんなに大事にしていた仕事をキッパリと辞め、4・6時中の妻の看病を始めた。(私の家内もアルツアイマーの老婦人の世話を10年以上していたので少し分かるが)お食事の世話も、普通なら15分の所が、1、2時間、それ以上かかると言う具合に。しかも、それをときどきではない。毎日毎日、妻の前にひざまずくようにして続けたのである。その姿を見た既に嫁いでいた娘は、このストーリーをドキュメンタリー番組として取り上げたフジTVのディレクターに書いた感謝状にこのように記した。「私にとって奇跡とは、ある朝起きたら、母が、元のように話せるようになった姿を見ることではなく、あの、仕事、仕事で、15分と家族と一緒にいなかった父が、今、毎日、母の前にひざまずくようにして、あーしてお食事を食べさせている姿を見ることである」と。
- 第一に「キリストを指さす力」である。「その祝福は誰のお陰ですか?」と尋ねられたとき、「証人」は「それはキリストです。キリストのお陰です」と、即座にキリストを指さす。そのための勇気と力である。別言すると、キリストに栄光を帰する力である。
- 最後に、私たちはこの力を得て、どこで「キリストの証人」となるべきなのか?
- エルサレム:自分の今いるお膝元、家庭、家族の中で (ある牧師の家族の日曜日の朝)
- ユダヤ:職場、学校、近所付き合いの中で
- サマリヤ:自分の苦手とする人々の中で、自分と性格の合わない人々の中で、何の理由からか昔からそりが合わない人々の中で、
- 地の果て:自分の知らない、自分にとって得にならない、無関係の人々に対して。
- 確かに、人々は、皆何らかの「力」を求めている。
結 論
- それでは、どのようにして、私たちは、このご聖霊に満たされる生涯を始めたらよいのか?
- それは、イエス様の昇天後、ペンテコステの日までの10日間に弟子たちが実行したことであった。
- 罪の告白と悔い改め:神様の御心に沿わないで歩いてきたこと、弟子たち同士で愛し合えないできたこと、イエス様を裏切ったこと、その一つ一つを主に告白してお詫びしたこと。
- 聖霊の満たしの必要を認め・求めること:私は聖霊の満たしなくしては、「キリストの証人」とはなれない。霊的には全く無力であることを認め、「聖霊に満たしてください」と祈り求めること。
- 自分を神様に明け渡すこと:三番目は、自分の心と生涯を神様に明け渡すこと。職業が何であろうと、自分の仕事、家庭、趣味、その他を通して、神の栄光を表すために生きること。
- 「約束」は果たされ、ご聖霊は私のうちに満ちたと信じる信仰:四番目は、徴や現象、感情のあるなしにかかわらず、「聖霊は私に来て、満ちてくださった」と信じることである。
- 最後は、それらを一瞬の決意と実行で終わらせず「継続」することである(例話:自転車)。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
最新の投稿
礼拝原稿2026年5月11日ご聖霊とクリスチャン #2
- 使徒の働き1:3~9 -
礼拝原稿2026年5月4日ご聖霊とクリスチャン
- 使徒の働き 1章1~11節 -
礼拝原稿2026年4月27日追い求めるクリスチャン像
- テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節 -
礼拝原稿2026年4月20日苦難の中の勝利(SRC日曜礼拝)
- ローマ人への手紙 8章28~39節 -
