米国での開拓伝道略史

プリンストン日本語教会
ニューヨーク日本語教会
ワシントン・インターナショナル日本語教会
クリスチャン・コミュニティ・センター(JCCCW)
北部バージニア・チャペル(NVAC) シンシナティ日本語キリスト教会

すべてはここから


始まった!

1982年9月から5年の予定で始まった留学生活も、9年余を経た頃、当初の計画を延長し、Ph.D.(旧約学)の取得にまで目標を拡大していた。しかし、最終段階で、第一希望校の同プログラムに不合格。「補欠」リストでは順位のトップであったが、その年は、既に決まっていた「合格者」からの辞退者が一人も起こらず、結局、同州にある他校の同課程に入学。

 同時に、暫く続いた「勉学」の緊張の糸がほぐれ、気分的余裕もでき、「数年」に迫った帰国後の日本での奉仕準備に「ギア」が入った。そこで、近隣日本人のための「聖書の学び会」開始を模索し始めた。

1991年10月27日

プリンストン日本語教会

そんな矢先、当時、家族で出席していたプリンストン・アライアンス教会(英語)の牧師から、協力して日本語ミニストリーを始めないかとの誘いを受けた。暫く祈りの期間を頂いた後、10年近く、ほぼ「学び」にのみ集中していた姿勢から、帰国後の「奉仕」態勢への「移行準備」となると考え申し出を受けた。
折しも、近くで持たれた学生伝道グループで知り合った青年、栗栖信之君(当時英語学校生徒)と近所の日本人駐在員夫婦、そして、私たち夫婦がスターティング・メンバーとなって、遂に1991年10月27日、第一回礼拝をもって「プリンストン日本語教会(PJC)」が誕生した。

初回出席者は8名であったが、前日には地域新聞の記者が取材に来て、「なぜ、こんなに日本人の少ないところ(当時、プリンストンの位置する中部NJ州の日本人人口は800名ほどと言われていた)で伝道するのか?」と尋ねられ、「日本人が一人でもいたら、そこで伝道するのです」と、若さ故からの傲慢な返事をしたのを恥ずかしく思い出す。折しも、近くで持たれた学生伝道グループで知り合った青年、栗栖信之君(当時英語学校生徒)と近所の日本人駐在員夫婦、そして、私たち夫婦がスターティング・メンバーとなって、遂に1991年10月27日、第一回礼拝をもって「プリンストン日本語教会(PJC)」が誕生した。
 PJCは、海外の日本語教会のご多分に漏れず、帰国者の絶えない、「移動」「増減」の激しい状況が続いたが、その中にも、比較的順調に成長し、その後、礼拝出席者の平均は12名、14名、16名、20名と増加し、2000年頃には30~35名を超えるほどになっていた。成長の大きな理由の一つは、「有能なスタッフ」の参入であった。

 当時、既に上述の栗栖信之君(そのように呼ぶ失礼お赦しください)は、州立大学2年生となったところで、聖書大学に転校し、フル・タイムの牧師・伝道師となる準備をしていた。奉仕としては、ユース・リーダーから始まって、後に副牧師としても活躍してくださり、私の辞任後、プリンストン日本語教会を継いでくださった。また、1995年に結婚してからは、あゆみ夫人が音楽と事務の強力なスタッフとなった。

 デーヴィッド・キンダーヴァーター先生も、またその一人。アライアンス教団から日本への宣教師として準備する中、神学校のインターンシップと宣教師候補生の国内アサインメントのための計4年間を私たちと共に過ごし、優秀なスタッフについては、更に次の開拓でもご紹介したい。

 PJCでは、アウト・リーチのためにいくつかのスペシャル・プロジェクトを試みた。一つは、「ビジネスマン」のための「ディナー・パーティー」。講師としては、米国を代表してJCペニーの元社長、日本を代表して三洋セミコンダクターの当時の副社長にお出で頂き、近くのホテルのボール・ルームを会場に、100名近くの日米ビジネスマンのご夫妻・単身での参加を得た。更には、数回に亘って、PJC主催での「ジャパニーズ・カルチュラル・フェアー」を開催することができた。華道・茶道・書道・武道、その他、雛人形、金魚掬いなど日本の伝統文化を展示・デモンストレイションを通して紹介した。一番多い時で700名が参加。収益金はすべて公共慈善団体に寄付した。もう一つ、「命のビザ」で知られる杉浦千畝の写真展(1週間)を中心に、ドラマ化された千畝氏の生涯のビデオ上映と、ご長男の講演会をも開催した。

多寡が僅かメンバー2~30名の「PJC主催」でこれらのイベントを開催できたのは、神様の導きと助けによって、地域日本人コミュニティからの多大な協力が得られたからである。そして、これらを通して、PJCという教会の存在を地域コミュニティの方々に知らせ、交わる機会が与えられた。

1996年4月

ニューヨーク日本語教会

 実は、そうこうしているうちに、ニューヨーク・マンハッタン郊外での開拓要請が内外に広がって来ていた。教団・教区内部からは、「アポストリック・ミニストリー」と言う特別な任務を頂き、「もっと日本人の多いマンハッタン地域での開拓」を促されていた。暫くは、Ph.D.コースでの学びとの両立の難しさを理由に断っていたが、地域日本人クリスチャンの方々からの新たな開拓を要請する声も次第に大きくなり、祈りのうちに、当分の間はPJCと兼牧することを条件に、遂に受諾した。私の勉学の方は当座のこととして、学校に休学届を提出した。しかし、その日以来、二度と同校に足を踏み入れることはなく、後日、自主退学した。

  かくして、徐々に備えられたニューヨーク日本語教会(NYJC:旧称「ウェスト・チェスター日本語教会」)の開拓は、1996年4月からリッジウェイ・アライアンス教会の一室をお借りして始まった。

 NYJCのミニストリーは、開拓当初からスタッフに恵まれていた。上述の栗栖師夫妻、キンダーバーター師に加えて、キンダーバーター師夫人エヴァンジェリン、更には、当時、アライアンス関係の大学、神学校で学ばれていた一人の有為な青年が、私たちのミニストリーを知り、チームに加わってくださり、音楽、またユースの働きを大いに助けてくださった(同師は、その後、帰国され、ある韓国系教団に属し、現在は関西に拠点をおいて、超教派的に全国各地で大いに用いられている)。

 加えて、NY開拓では、リッジウェイ・アライアンス教会が経営する幼稚園に、当時50名近くの日本人の園児がいたことに目を留め、現地に住まい、ミニストリーとの「橋渡し役」になる保母・幼稚園教師の有資格者を祈り求めた。神様は、ある伝道者のお孫さんを日本から3年のお約束で与えてくださった。この方が、極めて有能な方で、児童伝道を中心に、教会の事務関係一般、すべての仕事を見事にこなしてくださった。この他にも、一人の姉妹は、ジョージア州の大学からニューヨークの大学に転校してNYJCの働きに協力くださった。

 当時のスケジュールは、毎週日曜日、午前にプリンストンで「日曜学校」「礼拝」を持ち、昼食、スタッフ・ミーティングの後、NYマンハッタン郊外にチームで移動。午後5時から「こども」「ユース」の集会。6時半から「礼拝」「交わり」。週日は、「祈祷会」「英会話クラス・チャペル」のために、週一泊二日で小生がNJから通った。

そのような中、開拓当初20名ほどで始まった礼拝参加者も、短期間に70名を数えるほどになった。しかし、残念ながら、この成長は長くは続かなかった。私のリーダーとしての「至らなさ」故に教会に問題が起こり、教区長からの慰留はあったが、私は2000年2月付でのPJC、NYJC両教会の牧師辞任を決意。PJCは栗栖師、NYJCは約半年を経て、元アライアンス宣教師ロバート・ロング先生が後任牧師となり、以後、鈴木譲師、宮内康弘師が牧師として、現在は、田辺尚玄氏が信徒リーダーとして後継の任を担ってくださって来た。

同じく約半年後、私は、同じアライアンス教団の「ミッド・アトランティック教区」、当時まだ籍をおいていた「メトロ・ポリタン教区」の両教区長によるジョイント・プロジェクトの任を頂いて、ワシントンDC郊外(メリーランド州)の伝道準備に入った。

2000年11月12日

ワシントン・インターナショナル日本語教会

 ワシントン・インターナショナル日本語教会(WIJC、旧称「ワシントン・アライアンス日本語教会」)の開拓は、2000年11月12日、ダーウッド・アライアンス教会の一室をお借りしての礼拝で始まった。ワシントンDC郊外は、NYマンハッタン郊外と比べて、どちらも日本人の「入れ替わり」は激しいが、後者がビジネス・マン中心で平均滞在が5~7年とすると、前者は研究者、官公庁の役人、メディア関係者を中心に、更に短い2~3年。

2004年4月

クリスチャン・コミュニティ・センター(JCCCW)

 これらの「極・短期」滞留者が、帰国前に少しでも早く福音に「触れる」チャンスを作るため、2004年4月「クリスチャン・コミュニティ・センター(JCCCW)」を設立。場所は、数軒の日本人店が集まるショッピング・センター内の賃貸店舗スペースで、教会の活動もそこに移した(「地球の歩き方・ワシントン版」に写真入りで約10年に亘って「日本人村」として掲載される)。そこでは、英会話教室、料理教室、手芸教室など、地域日本人の「フェルト・ニーズ」に応えつつ、原則どのプログラムにもあるチャペル・タイムに於いて「福音」を確実に伝えて来た。最も盛んだった時期には、英語クラスだけでも、毎週7クラス、70名以上の参加があり、そこから、バイブルスタディ、礼拝へ、更には、帰国前・後の入信・受洗に導かれた人も多かった。

 ワシントンDC地域では、これらと並行して、2008年9月から、ポトマック川を挟んだバージニア側対岸地域に住む日本人のためのミニストリーを「北部バージニア・チャペル(NVAC)」として開始。毎週午後4時半からアライアンス教団の中国・韓国語教会の建物の一室をお借りしてもたれた日曜礼拝は、後に平均20名ほどの集いとなった。このほかに、「子ども集会」「聖書の学び会(週日、個人宅)」も持たれた。その後、TAEHO KANG先生・あゆみご夫妻が、奉仕者として働きに加わってくださった。このご夫妻が、また、語学力、音楽、説教、あらゆる点で、極めて優れた賜物を持つ方々で大いに助けて頂いた。私の辞任に伴い、そのまま継いで頂きたかったが、主のご計画のうちに、現在ご夫妻は、アライアンス教団の宣教師として青森で活躍しておられる。

そして、2018年6月24日(日)、拙宅で持った「WIJC、NVAC合同礼拝」をもって、JCCCWを含めたDCエリアでのすべてのミニストリーの責任を辞した。

 WIJCでのご奉仕は、全体として上述のJCCCWの活動を中心とする「地域コミュニティ」とのより「密着」した伝道・牧会であった。そのことは、地域日本人家庭が火事に巻き込まれたときも、東日本大震災のときも、「ワシントンDC桜祭り」の例に見るような(小生自身が20年に亘って毎年、大使ご夫妻等の臨席される二つの記念式典で日英語の開会祈祷を依頼される、ストリート・フェスティバルへの人気ブース出店) のような地域行事参加においても特色づけられていた(これらについては、「伝道方策自己評価」の観点から別項で再度記したい)。

2018年8月-2020年8月

シンシナティ日本語キリスト教会

 その後、以前から数回ご奉仕に伺っていたシンシナティ(OH)のクリスチャン・フェロシップ・グループの一部の方々が、「教会」として新たな出発をすると言う志を持たれ、ご依頼を受けて私どもの帰国まで2年間(2018年8月-2020年8月)、暫定・臨時牧師として新生「シンシナティ日本語キリスト教会」の開拓のお手伝いをすることになった。

「コロナ」が完全にパンデミック化する2020年4月までは、毎月空路で往復させて頂き、10-12日間「ロング・ステイ・ホテル」に滞在し、二回の日曜礼拝を中心に、聖書の学び会、役員会、壮年会、個人面談などのスケジュールであった(この間、沢山の方々から戴いた差し入れやお食事の招待に感謝している)。前述4月以降は、すべてオン・ラインでのご奉仕となり、また、その前後より他の諸先生方へバトンをお渡しして行った。

2021年11月22日本帰国、直後より、友人夫妻が牧会する栃木県の「佐野レインボー・チャーチ」の協力牧師としてご奉仕を開始する(詳細別項)。